Novel

過去の作品をウェブサイト上のみ限定公開しております。
大学院生の頃に作っていた『はなうた』という同人誌の最終号に載せた作品です。
 

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 左折のウインカーを見て、初老の誘導員はいくらか慌てたようだった。驚くのも無理はなかった。閉店間際の時間に駆け込んだところで、巨大な店内を回って買い物をするのは、どう考えても不可能なことだった。芳樹はハンドルを切りながら、男が近寄ってきた時にすぐ止まれるよう、ブレーキの上に足を置いた。聞かれてまずいような理由はなかった。だが男は慌てて見えたのが嘘のように、すぐさま態度を切り替えて誘導灯を振った。車は難なく立体駐車場へと案内された。芳樹はすれ違いざまに、男の顔色をちらと覗った。男は自分が関与すべきことは終わったとばかりに、もう真っ直ぐに前を見つめていた。
 立体駐車場は螺旋状に階をなしていた。辺りに他の車の気配はなく、エンジン音とともに、芳樹の車のタイヤがキュッと地面に擦れる音がよく響いた。突き当たりを左折して登り道に入ると、芳樹の軽自動車は悲鳴を上げた。なんとか階を上がり切ると、すぐにまた曲がり角にさしかかり、芳樹はハンドルを左に切った。左折と悲鳴を繰り返していくうちに階は上がって、見える景色も徐々に高くなっていった。だが景色を眺める余裕もないままに、次の曲がり角がきて、気づくと車は登り道で悲鳴を上げていた。そのせいか、道を登っているというよりも、向こうから道が迫ってくるという方が芳樹の感覚に近かった。とにかく芳樹はアクセルを目いっぱい踏み込み、何度も何度も同じ方向にハンドルを切った。それ以外に、迫ってくるものをなんとかやり過ごす方法はなかった。同じ動作の繰り返しは芳樹を辟易させ、徐々に惰性と無関心を生んだ。階が上がっていることに対して、芳樹は無感動だった。もはや登っていることさえ、忘れてしまいそうだった。
 屋上に着くと、車は一台も止まっていなかった。芳樹は悪い夢から自分を覚ますように、ギアをバックに入れて駐車場の中央に堂々と車を止めた。それでもまだどこかに、不安定な感じは残ったままだった。シートベルトを外してしばらく待つと、明るい店内入り口の辺りに人影が動くのが見えた。芳樹はパッシングをして合図を出した。ミカが小走りに近づいてくるのがわかった。
「すごい。時間ぴったりに着いたね」
「そりゃあね。どこにいたって、ちゃんと時間通りに来ますよ」
「それやめてって言ったじゃん。私がわがままなお姫さまみたい」
「バイト終わりに迎えに来いなんて言うのが、庶民の振る舞いとは思えないけどね」
 ミカはニッコリした笑顔を芳樹に返した。
「それで、今日はどこに行くのさ。プリンセス・ミカ」
「決めてない。今考える」
 ミカは助手席に座って前の景色を眺めた。
「ねえ、こんなに広い駐車場にたった一台しかいないなんて、なんだかすごいことじゃない?」
 相変わらずミカの捉え方は子どものようだった。ミカと話していると、芳樹はいつも自分の感じ方が馬鹿らしく思えた。
「屋根の上、登ってもいい?」
「え?」
 答えるより先に、ミカは助手席を飛び出してボンネットに手をかけた。
「おい危ないぞ」
ミカは弾んだかけ声を上げながら、力いっぱいによじ登ろうとした。だがさすがに腕の力だけでは上がることができず、終いには足をバタバタとさせた。芳樹は仕方なく後ろに回ってミカの足を持ち上げた。ミカはボンネットの上によじ登ると、立ち上がって遠くを見渡した。
「すごい! 街の灯りがキラキラしてる。それにほら、海が見えるよ芳樹!」
「他に何が見える?」
「あれは東京タワー? スカイツリー?」
「東京タワーは見えないだろ、小っちゃすぎて。他には?」
「あとはわからない。全部キラキラしていて一緒に見えるもん。見たかったら一人で登ってきてね」
「おまえ……」
 芳樹は運転席に戻り、いつもより勢いよくキーを回してエンジンをかけた。開いたままの助手席の方から「やだ、やめてやめて!」とミカの大きな声が聞こえた。芳樹は笑った。わからないものはすべて、このままミカの声に掻き消されてしまえばいいと思った。
 幼馴染みのミカがIKEAでアルバイトを始めてから一年が経った。といっても、家具やインテリアを売るのではなく、順路の出口にあるフードスペースでホットドッグやソフトクリームを売る仕事だった。そこだけ切り取ってしまえば、別にIKEAらしくもないありふれたアルバイトだし、なによりプリンセスらしくない下賤な仕事だった。だがミカは一年経っても、その仕事を楽しそうに続けていた。芳樹はあんなに安っぽいホットドッグとソフトクリームを、あんなふうに延々と作り続けるミカのことが理解できなかった。それに心配でもあった。昔から、ミカは気に入ったら最後、最初の感動をずっと忘れずに一つのことをやり続けるような人だった。車のボンネットの上に登ったのも高い所が好きだからで、思い返せば芳樹は子どもの頃からよくハラハラさせられたものだった。だから一度始めた以上、本当にその仕事をやり続けるかもしれなかった。もしかしたら一生、延々と同じ作業を。それはあんまりなことだと芳樹は思った。そんなことばかりしても、何にもならないのは誰が見たって明らかだった。何の益にも、何のためにもならない。
 だがそう言っておきながら、芳樹自身も答えを持ち合わせていなかった。何がミカのためになることなのか、いやそもそも、ためになることとは一体何なのか、わからなかった。その疑問が単に社会的な経験の不足によるものではないことは、始めからハッキリしていた。芳樹は根源的なところで何かに躓き、平然と生きることに戸惑っていた。目の前の生はわからないことだらけだった。
 時々、芳樹はあらゆるものを拒絶して、すべてを嘘だと思い込みたくなることがあった。その勢いのまま、ありもしない夢想に逃げ込んだ。もしモンゴルの遊牧民に生まれていれば、馬とともに一生を疾駆して、こんなふうに考え込むことはなかっただろう。パラオのような南洋の島々に生まれていれば、ただ海を眺め暮らして一生が終わっただろうと。
 だが拒絶の峠が過ぎてしまえば、結局は目の前の生に戻るだけだった。自分は何かにからかわれているのではないかと芳樹は感じた。こうやって考えていることすら、相手の思うつぼで、すべて見透かされているような気がした。
 そういう諸々の考えをないものにしてくれるのはミカだけだった。芳樹がミカのことをプリンセスだとからかうのは、決して冗談のためばかりではなかった。できることなら、ミカの従者か何かになって、ミカのわがままに付き合い続けていたかった。
「そうだ、オムライスが食べたい」
 とミカは言った。車は港北ICを抜けて保土ケ谷方面へ走り始めていた。
「長谷川さんのお店に行こうよ」
「長谷川さんって、あの長谷川さん?」
 長谷川さんは芳樹とミカの高校時代の先輩だった。芳樹とは同じサッカー部で過ごした仲で、ミカとは当時半年だけ付き合っていたことがあった。今は地元の駅の近くで喫茶店をやっていた。
「どうして急に? 会いたくなったの?」
「んー、あんまりそういうつもりはないけど」
芳樹は一度、オープンしたての頃に同期と数人でお邪魔したことがあった。長谷川さんは嬉しそうにコーヒーを淹れてくれたが、店の雰囲気はあまり好きではなかった。何かの機会に、長谷川さんと同期だったある先輩にそのことを伝えると、「あいつは気づいたらああなってたんだ。もう俺らの集まりにも呼んでないよ」と言っていた。
「あ、もしもし長谷川さん?……うん、久しぶり」
 ミカは早速電話をかけていた。芳樹は耳を傾けながら、どのルートで行くのが最短か道順を思い浮かべた。
「なんかね、お店は本当は20時までなんだけど、最近はお客さんが増えて常連さんにもっと遅くまでやってくれって言われて、22時までやってるんだって」
「繁盛してるんだね」
「そうみたい。遅くなっても今日は開けとくから、急がなくてもいいよだって」
「大丈夫。道もすいてるし、夜だからきっと22時には間に合うよ。一応車止まったらナビ入れてくれる?」
 芳樹は右にウインカーを出して追い越し車線に入ると、アクセルを強く踏み込んだ。

 喫茶『REST』の駐車場は二台のうち一台が空いていた。芳樹は車を止めると、隣に止まっている長谷川さんの車を眺めた。それは古いシビックだった。中の内装も古く、カーステレオらしきものには小さな文字盤が一つと、何に使うのかわからないボタンがたくさんついていた。
「燃費悪そう」
 とミカは言った。
「ミカ」
「それにほら、背が低いから登っても海は見えないよ」
「あまり余計なことは言わないこと。いいね?」
「正直に言ってるだけよ」
 芳樹は有無を言わせないように、ミカの背中を強引に押して店に向かった。
 店内は思った以上に客でいっぱいだった。酒も出していないのに、こんな時間に喫茶店の席がほとんど埋まっているのは、ちょっと異様な光景だった。といって賑やかな会話が聞こえる訳でもなく、四人がけのテーブル席に互い違いで座っている人たちを見ると、どうやら一人で来ている客が多いようだった。びっしり埋まったカウンター席の中で、長谷川さんの正面だけが二つ、予約席と書かれたプレートが置かれて空いていた。
「やあ、ミカに芳樹。こっちへ」
 長谷川さんは二人に気づいて手を上げた。お陰で二人は客の影に隠れていた長谷川さんを見つけることができた。
「お久しぶりです」
「すごいお客さんね」
 ミカと芳樹はほとんど同時に言った。すぐに顔を見合わせて、自分たちが興奮していることに気づいた。
「ありがとう。本当に久しぶりだね。芳樹はオープンした時以来だし、ミカは今日初めて来てくれたから。ミカとは高校の卒業式振りだよ」
「よく覚えていますね」
「覚えてるさ。思い出はぜんぶ頭の中に入ってる」
 長谷川さんの後ろにある棚には、大量の一眼レフカメラが一列に置かれていた。ざっと見渡しただけでも、他に埴輪の置物やら陶器やら子どもの頃に流行ったカードゲームやら、アンティークらしきものが店内のいたるところに飾られていた。だがそれらは、一つ一つは決して趣味が悪いわけではないとはいえ、全体としての調和を明らかに欠いていた。まるでいろんな人の思い出をごちゃごちゃに混ぜたかのようだった。
「今日はサービスするよ。久しぶりに会えて嬉しいからね。お腹は空いてない? うちはフードメニューも結構人気なんだ。もちろんコーヒーもつけるよ」
「私、オムライスが食べたくて来たんだ」
「オムライスか……ちょっと待ってね。……ああやっぱりだ、もう卵が切れちゃってる」
「え! どうして?」
「ありがたいことに繁盛してるからね。今日の分は売り切れだよ。せっかく来てくれたのに申し訳ない。ナポリタンとかどうかな?」
 ミカはむすっとしてメニューに目を落とした。こういう時、ミカは何を言ってもダメだった。一度オムライスが食べたいと言ったら、もうオムライス以外食べようとしなかった。メニューなんて見ても、どうせ何にも頭に入っていないに違いなかった。
「しょうがないよ。コーヒーだけでも頂こう。おすすめはやっぱりブレンドですか?」
「そうだね。豆には一応こだわっているんだよ」
「じゃあそれを二つ」
「なにかサンドイッチでもどうかな、ミカ?」
「いらない。あーあ、せっかく来たのに。それに元カノが食べたいって言ってるのにねえ」
「悪かったよ……。これから卵は余分に用意するから」
 それから長谷川さんはテキパキと動き出し、準備のために二人の前をあとにした。すると、今まで長谷川さんの背後に隠れていたあるものが目にとまった。それはレアルマドリード時代のロベルト・カルロスのユニフォームだった。高校生の時、長谷川さんはよくそのユニフォームを着て練習に励んでいた。長谷川さんにとって彼はアイドル的な存在で、みんなから名前をもじって「長谷カル」と呼ばれると、嬉しそうに手を上げて応えていた。だが芳樹は当時からそのことを疑問に思っていた。ポジションこそ一緒だったが、長谷川さんのプレースタイルはロベルト・カルロスと全然似ていなかった。太腿はあんなに太くなかったし、長谷川さんは背が高かったし、そもそも左利きではなかった。
 ミカは頬杖をついて奥の大きな液晶モニターを眺めていた。流れていたのは『風の谷のナウシカ』だった。ちょうど主人公の女の子がカイトのような乗り物に乗って空を飛んでいるところだった。女の子は地上に降り立ち、村の長老らしき人と話し始めたが、真っ直ぐな眼差しのまま口をぱくぱくさせるだけだった。そこで始めて、芳樹は映画がミュートになっていることに気づいた。
「そういえば、長谷川さんと鎌倉のジブリのお店に行ったことがある気がする。ほら、小町通りの入り口の」
「不二家の向かいの」
「そうそう。たしか長谷川さん、妹にって言って小さいトトロのぬいぐるみを買ってたような」
「違うよ」
 と言いながら長谷川さんはコーヒーを渡してくれた。
「ミカに買ったんじゃないか。忘れちゃったの?」
「そうだったっけ?」
「ひどいなぁ。今はどこにいっちゃったんだろうな、そのぬいぐるみ。それに僕に妹はいないよ。誰か他の人と間違えているんじゃない?」
 その冗談はあまり笑えなかった。長谷川さんの顔は見るからに引きつっていたし、この程度の人違いはミカなら全然あり得ることだった。
「でもその頃から、長谷川さんはジブリが好きだったんですね。僕全然知らなかったです」
 芳樹は上手く話題を逸らそうとした。
「そうだね。今でも金曜ロードショーの放送は録画して見てるよ」
「そんなに見て飽きたりしないの?」
「飽きるとかじゃないんだよな。ストーリー以上のものを見てるというか。とにかく落ち着くんだよ。今日は一日ずっとナウシカを流し続けてる」
「ずっと?」
「そうだよ、これでたぶん6回目だね」
「6回も?」
「そんなに驚くなよ。僕にとっては音楽みたいなものなんだ」
 二人はコーヒーを一口飲んだ。
「ここだけの話、けっこう儲かってるんですか?」
「どうだろうね、今は店を始める時に借りた借金のことで頭がいっぱいだから、あんまり実感はないけど。でも一個だけ正直なことを言うとね、本当はこうなるなんて思ってなかったんだ」
「どういうことですか?」
「こんなにお客さんが来てくれるとは思ってなかった。常連さんが何人かいて、店はぎりぎりやっていけるくらいで、それでもたまにこうやって昔の知り合いが顔を出してくれる、そんなお店になればいいって思ってたんだよ。お客さんがいない時は、ぼーっと窓の外でも眺めながら皿でも磨いてね」
 ミカは何か言いたそうに目を上げた。長谷川さんはそのまま話し続けた。
「現実は僕が思い描いていたのとは笑っちゃうくらい真逆だったよ。こんな時間まで満席で店は大繁盛、ぼーっとする時間なんてない。昔の友だちや知り合いは一向に遊びに来てくれない。本当はここでいろんな思い出話をしたかったんだ。みんながああだったこうだったって言い合うのを、ここで聞いて懐かしむくらいでよかった。繁盛なんてしなくてよかった。正直こりごりだよ。昨日なんて雑誌の取材が来てたんだ。噂の人気店の若手店長として紹介したいって。もうそんなに若くないのにさ」
 長谷川さんはまだ23歳だった。
「だから二人が来てくれて本当に嬉しい。やっと少し落ち着いて、語り合える時が来たんだ。少しは頑張った甲斐があるかもしれない。さあ何から話そう? 僕らにはどんな思い出があったかな?」
「話すことなんてないよ、長谷川さん」
 ミカは言った。
「そんなふうに聞かれて話すことは、なんにもない」
 長谷川さんはきょとんとしたまま、ミカのことを見つめていた。だがミカはそれ以上何も言わなかった。長谷川さんは泳ぐ視線を芳樹に向けて助けを求めた。芳樹にはミカの言おうとしていることが少しだけわかるような気がした。
「ミカ。ミカは今日、何をしに長谷川さんの店に来たんだっけ?」
「オムライスを食べに」
「そう、そうだよね。つまりここに来たのは……」
「ミカの気まぐれってことだね? 思い出話をするためでも、もちろん僕に会いたくなったわけでもないと」
「いや、そこまでではないと思いますけど……」
「はは、いやきっとそうだよ。思い出したんだ。昔からずいぶん、ミカの気まぐれに傷つけられてきたことをね」
 その言い方にミカはまだ不満そうだった。
「忘れていた僕が悪かった。それに卵を切らした僕がね。でも僕からすれば、ミカのそういうところを思い出せてよかったよ。ありがとう」
 長谷川さんはまるで自分の痛みに浸っているかのようだった。
「覚えているかミカ? 鎌倉でデートした日、ミカは白いダウンジャケットを着て、ふわふわした綿のようなイアリングを付けていたんだ。いつもの制服と違うから、僕はドキッとした。帰りの江ノ電は人でいっぱいで、空いた一席にミカが座って僕はその前に立っていたんだけど、ミカはおばあさんが乗ってきたことに気づいて、席を譲ったんだ」
「忘れちゃった」
「残念だなぁ。でもそうだね、昔のことだから」
 顔色からして、ミカはそのことを覚えているに違いなかった。何よりジブリのお店のことを思い出したのはミカだった。だが芳樹はこれ以上、長谷川さんの思い出話に付き合うのは危険だと思った。このままでは、ミカは平気で長谷川さんに最後の一刺しを加えてしまうと思った。
「あの、僕たちそろそろ失礼します。コーヒーご馳走さまでした。それでお代は……」
「もちろんいらないよ。最初に言った通りに。その代わりにさ……」
 長谷川さんは急に声を落として言った。
「また遊びに来てくれないか? いつでもいい。今度は必ずオムライスを準備する。そして必ず、ゆっくり話をしよう」
ミカは答えてと言わんばかりに芳樹を見ていた。
「はい、また来ます」
 芳樹はそう答えるしかなかった。席を立ってからドアが閉まるまで、芳樹は背中にずっと長谷川さんの視線を感じながら、店を後にした。
外に出ると、ミカと芳樹は自然と立ち止まって深く深呼吸をした。冷たい夜の空気を吸って、芳樹は急に自分たちがまだ何も食べていないことに気づいた。
「なんか、息苦しかった」
 ミカの独り言に芳樹は無言で頷いた。
「ねえ芳樹、コーヒーおいしかった?」
「コーヒー? よく覚えていないかも」
「だよね、私も。私たちって悪い人ね。これからどうしよっか?」
「海沿いのデニーズに行こう。お腹空いちゃった。そこならオムライスが食べれるだろうし、遅くまでやってるだろうから」
「最高! じゃあさ、歩いて行かない? 気分転換に。車はここに置いていけばいいよ」
「いいね。寄り道しなければ、1時間はかからないと思う」
「また私を子どもみたいに言って」
「そんなつもりじゃないよ、今のは」
「今のは? それで、どっちが海?」
 ミカは芳樹が示した方向に少し走ってから、思い出したように振り返って長谷川さんの店を眺めた。
「長谷川さん、こんなところに閉じこもっていたのね。芳樹、ほら早く!」
 芳樹はミカの後を追って歩き始めた。

 駅前を離れるにつれて道は暗く細くなり、海まで辿り着くのは思った以上に時間がかかりそうだった。だが二人はこの辺りの道にまったく不案内というわけではなかった。通りかかったことのある店、高校の誰々の実家、見覚えのある風景、曲がり角が、ある時ある瞬間の記憶を呼び起こしながら、道を繋いでいった。これを右に曲がるとどうなのか、左はあそこに繋がっているんじゃないかと、お互いの記憶を掘り起こしながら二人は進んだ。予想通りの道に出ると、二人はハイタッチをして喜び合った。そうして考えながら進むうちに、川を目指せばいいのだということに二人は気づいた。川に出ることができれば、そのまま海までは一直線だった。デニーズは河口からすぐの場所にあった。
 芳樹は夜の散歩を楽しみながらも、頭では別のことを考えていた。長谷川さんのことが頭からなかなか離れなかった。たしかにミカの言うように、あのお店は息苦しかった。高校生の時と変わらずに、芳樹はやっぱり長谷川さんに好感を持つことができなかった。だがあの時と違うのは、長谷川さんのしていることがわかるような気がしたことだった。長谷川さんの話を聞いている時、店のインテリアを見ている時、芳樹はつらかった。それは、長谷川さんがあの店に閉じこもっているのと同じ原因の何かを、芳樹自身も感じているからだった。もしどこかで何かを掛け違えていれば、自分もあんなふうに逃れて、思い出の中に閉じこもっていたかもしれなかった。たしかに芳樹にもどうすればいいのかわからなかった。だがだからといって、ああなってしまっては最後だと芳樹は思った。いくら健気に、目の前の一杯のコーヒーを淹れても、あれでは意味がない。芳樹は胸が痛かった。
 芳樹が長谷川さんのようにならずに済んでいるのはミカの存在が大きかった。ミカに引っ張られているお陰で、芳樹はギリギリでそうなることを回避していた。しかしだからといって、芳樹がミカのようになればいいというほど、話は簡単ではなかった。
 ミカには時々危なっかしいところがあった。高い所に登るなんていうのはましな方で、大抵は他人とトラブルを引き起こすのが常だった。ある時には駅前で横断幕を広げているUNICEFと宗教団体の区別がつかずに、一度そういう系の新聞を配るおばさんと熱心に話し込んだ揚げ句、最後には激怒されたことがあった。ミカは相手をからかっているわけでも、批難しているわけでもなかった。ただミカなりの純真さで、物事の本質を捉えているだけだった。
 芳樹には今でも忘れられない出来事があった。まだ小学生だった頃、アメリカの大きなビルに飛行機が突っ込んだことがあった。芳樹は何が起きたのかよくわからないまま、テレビの映像を見ていた。同級生たちもみな同じで、後日話題になることさえなかった。そんなことよりも、目の前の遊びと給食に誰もが夢中だった。だがミカは次の日の朝、「これでみんな自由になれたね」と言った。芳樹は子どもながら反射的に反感を覚えた。あれだけの人が死んだことを自由だと言ってはいけないと思った。それは学校で学んだからでも、親に教わったからでもなく、誰もが生まれた時から持っているはずの命の感覚に反することだと感じたからだった。だがミカにはそれが通じなかった。どれだけ言葉を尽くしても、態度で示しても、ミカには命の感覚が欠けているかのようだった。芳樹はそう思うことで、なんとかその出来事を飲み込もうとした。
 本当はミカに欠陥などないと、芳樹は気づいていた。真実から目を背けるために、自分を騙しただけだった。ミカは命の感覚からも自由だった。今はたまたま、生の世界に生きているだけで、気が済めばどこかへ行ってしまうような気がした。芳樹はそのことを認めたくなかった。ミカに側にいてほしかった。だが同時に、ミカの純真さに戸惑っていた。あまり近づきすぎると、かえって自分の命自体が否定されてしまうんじゃないかと思った。その可能性は今もゼロではなかった。少なくとも芳樹から見て、ミカはあの時から何一つ変わっていなかった。
 ちょうど歩き疲れた頃になって、二人は川に出た。柵につかまって見下ろすと、月に照らされた川面では黒い鯉たちが動き回って微妙な光の陰影を作り出していた。海に向かって川は左に湾曲し、あとどれくらい続いているのかわからなかった。だが時折、姿の見えない灯台の明かりが夜空を横切っていった。海に近づいていることだけはたしかなようだった。
「勝負しようよ!」
 とミカは言った。
「こっちと向こう岸に別れて、どっちが先に着くか走る。次の橋までね」
「どうして急に」
「いいから。私が向こうね」
 ミカは向こう岸に向かって近くの橋を駆けていった。芳樹はアキレス腱を伸ばしてから、足下に気づいて靴紐を結び直した。もう片方を直そうと足を替えた時、ふと自分のしていることが嫌になった。こんなふうにミカの後を追いかけてばかりではいけないはずだった。
「私が手を下ろしたら、スタートね!」
 ミカは向こうから大声で叫んでいた。いけないのだとしても、いったい何をどうすればいいのだろう。芳樹は手を上げて応えながら考えた。
「いくよー!」
 ミカの手が真っ直ぐ下がった。始まった以上、とにかくこの勝負をしようと思った。ミカは昔から運動神経は良い方だったが、さすがに負ける気はしなかった。
 だが対岸を見た途端、芳樹は焦りを覚えた。川が左に湾曲していることを計算に入れていなかった。つまりミカの距離の方が短く、芳樹は大回りに走らなければならなかった。一気に力を込めて走り始めた。川沿いの細い道を蹴る音がたった一続き、後を付いてくるようにはっきりと聞こえていた。芳樹は対岸を走るミカを何度も確認した。今は隣に見えていても、実際には見えない差がついているのかもしれなかった。そう思うと、速度を緩めることはできなかった。
 橋はなかなか姿を見せなかった。ミカとの距離もわからなければ、道の終わりも見えなかった。芳樹はまるで誰もいない場所を走っているかのようだった。川では黒い鯉たちが動き回り、芳樹を呼んでいた。鯉たちを見ないようにするのが芳樹の精いっぱいだった。きちんと前を向いて走れなかった。考えるほど、そして走るほど寂しかった。それでも芳樹は懸命に腕を振った。止まりそうな足に動け動けと念じて、まるで走ることに逃げ込むかのように、走った。
 橋の姿が見えた時、ミカは芳樹よりわずかに前を走っていた。芳樹は最後の力を振り絞って、橋のたもとに手をついた。二人が着いたのはほとんど同時だった。息を切らしながら、ミカと芳樹は橋の中ほどでまた顔を合わせた。
「ねえ、芳樹。潮の香りがするね」
 とミカは言った。口でしていた息を鼻に変えると、突然潮の香りが胸いっぱいに入り込んできた。芳樹はなぜだか泣きたくなった。

 海沿いのデニーズは座り放題といっていいほど空いていた。二人はボックス席に座るとメニューを開いた。
「運動した後だからもうお腹ぺこぺこ。フライドポテト付けていい?」
「もちろんどうぞ」
「あ、ハンバーグステーキにしようかな」
「なんで? オムライスじゃないの?」
「そうなんだけど、こっちも美味しそうだから」
「だめだよ、今日はオムライス」
 芳樹はそればかりは譲れなかった。
「そんなの付き合いきれない。今日はすべてそこから始まっているんだから」
「だって、気分は変わるものでしょ?」
「だめ」
「どうして?」
「どうしても」
 結局、芳樹は無理矢理ミカにオムライスを頼ませた。料理が来るまでミカはそっぽを向いていたが、いざ運ばれてくると満足そうに食べた。食べ終わると、二人は急に眠気に襲われた。時間も時間ながら、あんなふうに走った後なら当然だった。それにここからまた歩いて帰ることを思うと、億劫で仕方がなかった。
「朝焼けを見ようよ」
「朝焼け?」
「そう。これから帰るなんて考えたくないもん」
「ちょうどそのことを考えてた」
「でしょ? 24時間なんだからずっといても怒られないよ。朝になるまでここでうとうとしてたい」
 芳樹は急にミカの言うことが名案であるように思えた。ここにいれば寒くないし、頼めばいつだって温かい食べ物を食べることができた。ドリンクだって飲み放題だった。気兼ねするような客もいなかった。
それに、こんなふうにファミレスから外を眺めることが芳樹は気に入り出していた。海沿いの国道は車の数こそ減ったが、無数の街灯とラブホテルの明かりに照らされて、時間がわからないほど明るかった。このままずっと、ファミレスの窓から外を眺めていたかった。時間なんてなくていいし、本当は朝も来ないでほしい。芳樹は眠い頭でぼんやりとそんなことを思った。そうすればミカをここに閉じ込めておけるかもしれなかった。
 気づくと芳樹は窓枠に肘をついて眠っていた。夢の中でもずっと、窓の外を眺めていたような気がした。身体を起こすと、店はさっきより明るくなっていた。まだ朝陽は差していなかったが、底の方からじんわりと暖まっているのがわかった。芳樹は新しいコーヒーを取りに席を立ち、少し迷ってから、カップを二つ持って戻った。ミカもちょうど目を覚ましたところだった。
「おはよう、ミカ」
 芳樹はコーヒーを一口飲んだ。口の中で粘ついたものを一緒に流し込むと、いくらか意識がはっきりとした。
「もう朝?」
「そろそろね」
「じゃあ行かなくちゃ」
「まだ大丈夫だよ」
「でも、もう明るくなってる」
「とりあえず、コーヒーを飲みなよ」
 芳樹は少しでもミカを留めておきたかった。
 デニーズを出た時から、芳樹には違和感があった。何かがいつもと違っているような気がした。もちろんそれには考えられる要因がいくつもあった。まだ寝起きで頭が回っていないのかもしれなかったし、こんなに朝早い海の街を見慣れていないだけかもしれなかった。だがそのどれもが、今ひとつ決め手に欠けていた。違和感の正体と呼ぶには何かが足りなかった。芳樹はミカの後を追って、車の気配さえない四車線の道路を横切って渡った。その時ふと、振り返って海の街を眺めた。国道の街灯とラブホテルの明かりは朝陽に消されて、街は新しい朝を迎えようとしていた。一番早い人々はもう起き出して、一日を始めるだろう。せわしなく身を整えながらも、満ち足りた気分でこの朝陽を浴びることだろう。芳樹は彼らに出会いたくなかった。そんなふうに輝かしく生きることはできなかった。逃げるように、また追いやられるように、芳樹は海へ続く小道を進んだ。
 波はいつもと変わらずに寄せては返すことを繰り返していた。芳樹はミカの隣に立って、言葉を探した。だが何を喋ったらいいのかわからなかった。ミカを相手にして話題が見つからないなんておかしなことだった。芳樹はあらためてミカを見た。ミカは目を閉じたまま、なにやら嬉しそうに少しだけ顔を上に向けていた。それでは肝心の朝焼けを見ることができなかった。芳樹はそのことをミカに言おうとした。だが、なぜだか声が出なかった。芳樹はとっさに咳払いをした。喉が震えている感覚はたしかにあった。もう一度声を発してみたが、やはり何も聞こえなかった。次の瞬間、芳樹は違和感の正体に気づいて海を見た。いつもは激しく吹く海風が今朝は吹いていなかった。それでも海は朝陽に照らされて輝いていた。その現実感のない美しさの中に、芳樹は閉じ込められてしまったようだった。芳樹は諦めずにミカを呼んだ。だが何度呼んでも自分の声は聞こえなかった。このままでは身体さえ、絵に切り取られたように動かなくなる気がした。その恐れと同時に、ひょっとしてミカはどこかへ旅立とうとしているのではないかと思った。自分を置いたまま、ミカだけは絵の中から抜け出そうとしているのではないか。それだけは嫌だった。今度は心の中でミカに呼びかけた。行かないで欲しかった。どうにかして生きるから、ここにいて欲しかった。何度呼びかけてもミカは振り向かなかった。芳樹はミカの肩に手をかけようとした。だがもし触れることができなかったらと思うと、怖くて手が上がらなかった。
 そのうち、ミカはぱっと目を見開いた。同時に芳樹の耳には波の音が聞こえ、浜辺には風が吹き始めた。すべてが新しく感じられた。見慣れた海の活力に驚くとともに、芳樹は深く安堵した。
「ミカ!」
 芳樹はどうしてもその感動を伝えたかった。今度はちゃんと声が出た。だが反射的にミカの名を呼んでから、さっきの怖さに思い当たった。何が起こるのかわからなかった。
ミカは振り向いて少し笑っただけだった。それからまた正面の海を眺めた。芳樹はミカの本意を推し量ろうかとも思った。だがそんなことをすれば、また聞こえなくなるような気がした。ただ並んで、同じ海を見ているのだと思うことができれば、十分なのかもしれないと芳樹は思った。
 

💡
『はなうた』第十号(2022年1月31日発行)
 
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